1600年、関ヶ原の戦いで徳川家康が勝利をおさめてから、1867年の大政奉還までの江戸時代は、大きく前記・中期・後期に分けられます。
江戸時代前期…桃山時代から引き続き、小袖に細帯という姿が主で、髪型は無造作に上部でまげをつくった唐輪というスタイルでした。
江戸時代中期…細帯からだんだん帯幅が広くなり、それに比例するように、結髪の風潮も広がりをみせはじめました。
江戸時代後期…小袖と丸帯に日本髪というスタイルが完成します。着物の柄も総模様から裾模様へと変化しました。
江戸時代も職業や年齢などによって、着物の装い方やヘアスタイルなどに差があったことは変わりありませんが、町人文化が発達した江戸時代での服装の中心となったのが「小袖」です。
小袖とはその名の通り、袖口を小さく縫いつめて小型の袖にした着物のことですが、もともと肌着として用いられていた小袖が、江戸時代では、表着(うわぎ)として定着し、普及していきました。
江戸時代は、武士を頂点とした士農工商という身分制度がありましたが、上方(京・大阪など)や江戸の裕福な町人は、衣服に凝るようになり、町人文化を反映した華美な小袖が誕生しました。その代表的な小袖が慶長小袖、寛文小袖、元禄小袖です。
慶長小袖
江戸時代の慶長年間(1596~1615年)を中心につくられた小袖です。小袖全面を絞りで、山形、雲形、円形・三角形・菱形、その他の不整形な区画に区切り、その内側に草花や鶴亀、器物などの模様を綿密に刺繍し、模様のないところに全面摺箔を置いたものです。
手の込んだ煌びやかな慶長小袖は、絞りと刺しゅうと箔で生地がみえないほどに全面を埋め尽くした意匠であるため、別名を「地無し小袖」とも呼ばれます。
寛文小袖
寛文期(1661~1673年)頃、流行した小袖の形式で、主に肩から右身頃にかけて大柄な文様を配し、左身頃には余白を持たせた構図の大胆に配された柄行と余白が特徴となっています。金をふんだんに用いた明るい色調で、主題のある文様を、はっきりとわかるように配した大胆な構成で、町人文化の躍動的な時代を表しています。
元禄小袖
元禄期(1688~1704年)頃に流行した小袖で、花見小袖とも呼ばれます。元禄期は上方を中心とした町人文化の最盛期で、この頃の小袖は、文様を着物全体に散らしたものや、裾から背へかけて覆うように大きな文様を配したものがみられます。また、この時代に完成されたといわれる友禅染により、かつて織りの着物では表現できなかった細かい線や柔らかい線など、自由に模様が描かれ、明るい色彩が特徴となっています。
江戸時代も後期を過ぎると、公家の間でも儀式以外では小袖を着るのが通例となります。また、小袖自体の袖が、巨大化して振袖が誕生しました。
この時代は、娘は振り(袖つけから下のあき)のある着物、すなわち振袖を着ていましたが、結婚すると袖丈を短くして、振りを縫い留め、身八つ口(スリット)のない着物、すなわち留袖を着ていました。
江戸時代の留袖は、現代のミセスの礼装とは異なり、縞もあれば無地もあり、友禅もあれば、紬の留袖もあったといいます。 その後、帯幅が広くなるとともに、袖丈が長くなり、次第に長い袖つけが不自由になり、江戸時代中期以後は身八つ口を設けるようになりました。