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永江明夫の作品お買取り致します

2019.1.15

永江明夫の作品買取ります


1915年に奄美大島で生まれた永江明夫は、奄美大島で初めて大島紬の撚糸工場を開いた父親の永江諒彦、大島紬を織る時に使う締機(しめばた)の発明者で祖父の永江伊栄温という大島紬に関わる家庭で育ちました。

織物家業の家系に生まれたものの、家業を継ぐ事はせず大学卒業後は建設関係の仕事に就職します。

その後結婚した永江でしたが、第二次世界大戦が勃発し軍隊に派遣されるも日本が負け、シベリア捕虜として過酷な労働生活を2年間強いられ、やっと日本に帰れた時には故郷はアメリカの占拠下となっていました。

故郷に帰ろうとしていた永江は、九州で足止めを食らってしまいそのまま九州の地に残る事になりますが、義父の東郷治秋が鹿児島から宮崎県に織物産業の工場を移転していた事を知り一緒に事業を手伝うようになります。

初めは薩摩絣や大島紬、宮古上布などの織物を作り始めますが、永江の思い描いていた織物とは異なり違和感を覚え始めます。

そんな中、室町時代から栽培された木綿が日本で大量に生産された事により木綿製品が雑に扱われている現状を見た永江は「日本人に昔から愛されている木綿をもっと大事に着てもらう方法はないか」と考え現在の薩摩絣作りに取り掛かりました。

製作にあたり絹に負けない手触り、木綿特有の吸水性による縮みという問題が立ちふさがったものの、2つの課題を15年の月日をかけてクリアさせ、なめらかな肌触りとシックな印象を兼ね備えた作品に仕上げました。


薩摩絣

義父の東郷治秋と永江明夫が共同で作り出した薩摩絣の歴史は、戦国時代に薩摩藩主だった島津義久が琉球を攻めた際の貢物の中に入っていた絣が美しかった事から以降薩摩への献上品として作らせていました。

また、薩摩絣は琉球で作られていた事から別名琉球絣とも呼ばれていましたが、薩摩で販売された事で次第に薩摩絣という名前が一般的となります。

戦前には一般市民が着る服として定着していた薩摩絣でしたが、戦後高級織物として大島紬が出回った事で薩摩絣は徐々に衰退していきました。

この事態にいち早く動いたのが上記でも紹介した永江明夫で、義父の東郷治秋と共に織物製作を初め1950年に東郷織物工場を設立しました。

絹に負けないような手触りにする為80番手の極細糸を使い、明夫の祖父が発明した締機で大島紬と同じように織っていきます。

しかし、大島紬と異なり木綿は滑りにくいので織る時に力を要しますが、強度がないのでとても切れやすく締機で織るには熟練された技術が必要となります。

そして、木綿は縮む性質をもっている為染めの工程を行った時にどれだけ縮むかという割合を計算しながら織っていかなければいけません。

薩摩絣は、織りから染めまで職人1人1人が手作業で行っている為1反作るのに半年、1年ではどれだけ頑張っても80反程しか作れないそうです。

長い時間と手間をかけて作られた薩摩絣だからこそ中古市場でもお買取りが可能なお品物となっています。


永江明夫の作品買取について


いわの美術では、永江明夫の薩摩絣をお買取りしております。

木綿で作られているのに絹を超すような柔らかい肌触りと艶が特徴で、一度着てしまうと着心地の良さに感動する事間違いなしの作品です。

また、永江明夫以外でも染色研究家の龍村平蔵や人間国宝に認定された北村武資の作品もお買取りしております。

そして、着物以外にも帯や反物、帯留、帯紐などの和装小物や、茶道具・洋食器・お酒・ブランド品・リヤドロ・ジュエリーなどもお取扱いしております。

お引越しや遺品整理、生前整理、ご実家の整理で処分を検討されている方がいましたらお気軽にいわの美術までお問い合わせ下さい。


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