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着物の歴史~奈良・平安時代

2016.6.16

着物の歴史~奈良・平安時代


着物の歴史・奈良時代


奈良時代に入っても、引き続き中国に対して遣唐使を派遣し続け、唐文化を旺盛に取り入れていきます。奈良の都も中国・長安に真似て、道路を碁盤の目のように敷いたり、唐風の仏教画や彫刻がつくられるなど、様々な面で唐文化が取り入れられました。


こうした流れの中で、衣服は地位や権力を象徴するものとなり、髪型や冠、頭飾りなども唐風を真似てつくられました。

元正天皇の時代、七一九年に衣服令が定められると、身分階級に従って礼服・朝服・制服が決められ、衣服の組み合わせや色目も階級により決められました。


奈良時代の衣服の素材としては、苧麻、大麻、藤などの植物繊維が主であったといわれ、庶民は。麻の水干筒袖の小袖を愛用していました。 また、この衣服令により、着物のえりあわせがそれまで「左前」だったものが、現在のように「右前」と定められました。私たちの祖先は、衣服令以後、千年以上も前から右前に着物を着るという方法を守り続けてきたのです。


着物の歴史・平安時代


平安時代の着物といえば、百人一首にみられるような美しく雅やかな「十二単衣」が象徴的な存在です。平安朝を彩った華やかな宮廷生活が想像できますが、この十二単衣が完成したのは平安時代中期といわれています。

平安時代初期の服飾は、奈良時代の延長で唐風のものが着用していました。それまで派遣されていた遣唐使も、菅原道真により中止され、これをきっかけに、それまで唐風一色だった日本文化が徐々に日本人による、日本の気候や風土、社会に合った文化を生み育てはじめます。


貴族社会であった平安時代の衣装は華美になっていきますが、さらに、京の都は、特に冬に底冷えがひどく、貴族達が何枚もの衣服を重ねて暖をとったことは容易に想像ができます。

十二単衣は、文献によると、十二枚にとどまらず、二十四、五枚も重ねたと記録されており、その厚さは胸元で十五センチもあったといいます。当時は十二単衣とよばず、女房装束、唐衣、裳姿と呼ばれました。

一番上に羽織のように着たものが「唐衣」、後ろへ引いたのが「裳」で、その両方をあわせて唐衣・裳姿と呼びました。この唐衣・裳姿は、当時の貴族女性の第一礼装で、天皇にお仕えするときなどはこの衣装が着用されました。

紫式部の源氏物語を表す源氏物語絵巻にも当時、唐衣、裳姿が完成していたことを伺い知ることができます。


このようにして、平安時代の貴族には重ね着の風習が生まれ、色を重ねて季節と情景を表現するという日本ならではの感性がみられるようになります。貴族の女性達は、重ね着のそで口やすそに鮮やかな色どりをみせる衣の色の組合せを楽しみ、几帳の影や牛車の簾の端からのぞかせた着物のすそなどをみて、当時の男性たちは、センスのよい女性と、女の噂をとりどりにしていたようです。


服飾専門家によれば、この重ねの色目は紅梅、山吹などと名付けられ八十種類以上も組み合せがあったとされ、この重ねの色目こそ、王朝美学と日本人の優れた美的色彩感覚が見事に表現された傑作といわれています。 また、平安時代には更衣(ころもがえ)の風習がみられるようになります。

四月一日になるといっせいに夏物となり九月まで夏装束となり、紗、羅などの薄物が着用されました。十月から三月末までは、冬物として、綾、唐織が用いられ、貴族達は唐衣や表着に、二倍織物を着用しました。


唐衣・裳姿には必ず扇子を持ちます。奈良時代にはうちわが使われましたが、それに代わって平安時代になると、日本人の発明による扇子を持ちましたが、これは実用的なものといいうよりは、儀式の小物としての意味を持っていました。この唐衣・裳姿は現在の皇室の婚礼の式服としても残っています。

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