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紅型の歴史

2016.4.18

紅型の歴史


紅型 沖縄を代表する染の伝統工芸品といえば、紅型(びんがた)を思い浮かべる人が多いかもしれません。

紅型は、東南アジアとの交易の中から、独自に発展していった琉球王国を象徴する伝統工芸品です。

自然の色を原材料に手作業から生まれる美しい色合いの紅型は、古来、琉球の王族や氏族、諸外国の王家など、多くの人々を魅了してやみませんでした。


紅型研究者として知られる鎌倉芳太郎によれば、「びんがた」という言葉は、もともとは首里の職人たちが使っていた言葉で、これに「紅型」という漢字が当てられたのは、大正時代に入ってからのことだといいます。首里の職人の間では「紅」は色の意味で使われていましたが、現在では「赤」という色に限らず、色全般を示す言葉として用いられています。また「型」は模様を指します。

 

 

紅型の歴史


紅型は琉球王府、首里などを中心に、婦人の礼装や神事に関する古式の服装として摺込みの手法で染められたのが、琉球紅型の起こりだとされています。


14世紀末に始まる「大交易時代」に、中国や東南アジアとの海外交易により中国の印花布の技法や、インド、ジャワなどの更紗の染色技法が日本にも伝来します。それらが、やがて沖縄の気候風土と自然に育まれながら、紅型という琉球独特の染物が誕生しました。

以来、琉球王府の保護もあり、近隣諸国から様々な技術を吸収し、南国特有の神秘的な美しい紅型という染物は、琉球文化の華として揺るぎない地位を得るに至ります。


また、対中国との貿易では、紅型が貴重な交易品ともなりました。 琉球王朝の保護下にあった紅型は、王朝お抱えの絵師が図案を描き、彫り師が型紙を彫り、それを紅型三宗家「城間家」「知念家」「沢岻家」を中心とした紺屋が染めるという形態で、首里を中心に生産され、発展していきました。


「使琉球記」(李鼎元・1800年)の紅型に関する記述などによれば、18世紀半ばには模様も含め、現在の紅型の技術が確立していたことが確認されています。琉球国内で上流階級の婦人用の衣装として愛用されてきた紅型は、江戸時代には幕府への献上品ともなりました。


しかし、紅型は元来、王族や氏族が使うものだったため、琉球処分(明治政府のもとでなされた沖縄に対する強行的

な廃藩置県)で沖縄県となってからは、身分制度の廃止もあり、紅型の生産量は激減していきました。

さらに、第二次世界大戦で多くの型紙や道具が焼失してしまうという事態に陥りますが、一部の紅型の型紙は、鎌倉芳太郎により保存され、本土にわたり保管されていたといいます。


戦後、それら型紙を分けてもらい、紅型復興に尽力したのが、琉球王朝時代から紅型宗家として染物業に従事してきた城間家の城間栄喜と、知念家の知念績弘です。戦後の材料不足の中、拾った日本軍の地図に下絵を描き、型紙として利用したり、口紅を顔料の代わりにして使用するなど、工夫をしながら紅型の復興に勤めました。

城間家、知念家らを中心とした作家や支持者たちの多大な努力により、紅型は鮮やかで雅やかな沖縄独自の染物としての地位を再び手に入れ、その華麗さや洗練された芸術性が、現代的なセンスとともに表現され、今に伝えられています。

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